2011年2月6日日曜日

セレンディピティ


セレンディピティと言う言葉をご存知だろうか。これは、昨年、ノーベル化学賞を受賞された、根岸さんと鈴木さんのお二人が、それぞれ、異なる場で、若者達へのメッセージに用いた言葉だ。根岸さん、鈴木さんとも、研究が成功するにはセレンディピティが必要で、若者達にそれを身に着けて欲しいという文脈で発言をなさっていた。

セレンディピティという言葉は、あまり使われない言葉で、日本語訳もなく、よって、時の人である根岸さんや鈴木さんの発言にも関わらず、この言葉の真の意味を理解した人は少なかったのではないかと思われる。この言葉は、もともとはセイロンの王子が旅に出て、いろいろな偶然に遭遇し、そこから価値のあるものを発見していったという物語から、宝物、あるいは、大事なこと、価値あるものを見つけ出す能力のことを指す。セレンディピティとは、宝物そのものではなく、それを見つけ出す能力、聡明さのことなのだ。お二人が言いたかったことは、「果報は寝て待て」ということではない。待っているばかりでは、偶然の機会に出会うことすらできないから。

根岸、鈴木の両氏が言いたかったことは、内向き思考を捨て、積極的に行動し、その過程で、謙虚に大事なことを学び取る能力を磨き、一旦、大事なものを見つけた折には、それにしがみついて欲しいと言うことだと思う。セレンディピティは、研究者だけに重要な能力ではない。今、内向きと言われる日本の若者、いや社会全体が必要としている資質だ。

今、日本を見ると、国の格付けも、プレゼンスも低下し、皆が自信喪失になっているように見える。明治維新や、戦後の復興の過程を思い出しても、昔は、日本人も、セレンディピティに溢れていたように見えるのに、いまやその能力を失っているようだ。たとえば、ようやく、政権交代になったのに、国会の質疑応答を聞いていても、言葉尻を捉えての論戦ばかりで、本当に国民の将来にとって何が大事を論議するのに時間とエネルギーを費やしているようは見えない。企業も個人も、危険を避けて安定を求め、内向きになっている。本当に残念なことだ。

このような日本を変えるのに、セイロンの王子が旅に出て、大事なことを見つける能力を磨いたように、特に若者達は日本病ともいえる内向き病にかかることなく、地域のため、日本のため、世界のため、そしてまだまだ長い将来がある自身のため、目を外に向け、大きな視野で物事を見て、本当に大事なことを見つける能力を磨いて欲しいものだ。それでこそ、自由闊達で多様性を大事にする社会を作りあげることができると思う。セレンディピティの思想は今の時代のキーワードのように思える。

企業よ、お願いですからサッカーから学んでください

2010年から2011年にかけて、大きく飛躍したもの、それは日本のサッカーだ。アジアカップでの日本の優勝は、国民を狂喜の渦に巻き込んだ。思い起こせば、2010年、悲観論が渦巻いていた南アフリカでのワールドカップで、下馬評を覆し、世界16強に入ったのが成長の始まりだった。日本チームの善戦は、朗報に飢えていた日本国民を力づけ、世界の人達を驚かせた。その結果、多くの選手がサッカー先進国のヨーロッパに引き抜かれ、さらに腕を磨く場を与えられた。彼らの大いなる成長は、恐れの克服、団結心、そして、最後まであきらめない精神力の強さに見ることができる。

成長の要因は、選手の海外での経験が大きくあるに違いない。言葉、習慣、食べ物など、日本とは違う、言わば完全アウェイ状況の異文化の中で、個人として実績を積むことは容易でないことは想像に難くない。日本の微温的な環境を離れて、意思疎通に苦労する環境は、やる気のある若者を鍛え上げるのに最適の場と言える。それが、サッカーにおける好循環を生み出しているのだ。

多くの日本国民は、サッカーでできたことを他の分野でも成し遂げたいと思っているに違いない。けれど、若者の就労環境を見ると、企業は若者の内向き志向を嘆きながら、実際に行っていることは若者つぶしと言っても過言ではない。はっきり言って、日本の企業は、大局観に立った人材育成をしてきていない。多様性が重要と言いながら、人と異なる人間や、突出した人間を排除して来たと言われても抗弁できるのだろうか。組織の安定と効率を第一に考える企業が実際にしてきたことは、多様性つぶしに他ならない。

例を挙げてみれば、切りがない。まず、日本では新卒信仰が強すぎる。新卒で就職できないと、若者が職を得る機会は壊滅的に激減する。新卒を採用し、その企業カラーに染め上げて行くというのは、終身雇用が当たり前だった高度成長期でこそ通じる話ではなかったのだろうか。こういう採用の仕方を続けている限り、学生達が学業そっちのけで、大学3年の頃から、就活に奔走するのを非難することはできない。たとえ、面接時期をいくらか遅くしてもそれは、根本的解決にはほど遠い。何と言っても今の若者は、高度成長を経験していないのだ。縮み志向の社会で育った彼らは、親の世代より豊かになれるのが当然と言うような団塊の世代には当然だった感覚など持ったことがないに違いない。こういう若者が、外に目を向けず、ともかく安全と思われる道を選ぶのを、大人たちが非難できるだろうか。

年一回の新卒採用は、外国留学を阻んでいる。昨今、日本からの留学生の減少に、アメリカの大学までが懸念を表明しているが、留学を阻害する要因は企業自身が作っているのだ。外国でも通用する人材の必要性を説きながら、企業自身が、留学するのを躊躇させ、内向き志向の若者を優遇するシステムに固執しているのは皮肉と言うほかない。留学をすれば、3月の一律卒業はかなわず、企業の採用スケジュールに沿って、仕事を探すのは非常に不利だ。一年一回ではなく、せめて年2回、4月と9月の採用スケジュールに変えれば、若者達も安心して外国で学ぶというオプションを取れるに違いない。そうすれば、サッカー選手のように、チャレンジ精神に溢れ、ひときわ強い精神力を持った若者を引き付けることができる。それは企業にとっての朗報であろう。

日本の企業が外国留学した人達を冷遇してきたのは厳然たる事実だ。修士号やMBAを取っても、学んだことを活かす環境がなく、結局、組織を離れてしまうという例は枚挙に暇がない。そして、優秀な人間は外国に活躍の場を求めて出て行ってしまうのだ。頭脳流出(Brain Drain)は、グローバル時代、勝ち組でない国や組織がどこも直面している大問題だ。そして異物を嫌う日本の企業は、どれだけの才能を見殺しにしてきたのだろうか。異物排除の論理が、多様性を抑圧し、結果として企業の成長力を阻害してきたのにもかかわらず。

若者達はそんな企業の本音に正直に反応する。修正された写真を貼った履歴書を片手に、皆同じリクルートスーツを着て面接に臨むのは異様な光景だ。おそらく、彼らは、模範解答に倣って、同じような応答を行うのに違いない。若者に個性的であれと言う言葉とは裏腹に、企業は結局、昔ながらの学歴偏重をいっそう悪化させている。個性や多様性を重視するなら、孤独を恐れず、自分で考え行動することを奨励するのが一番大事なのに、彼らはダイヤの原石を探そうとする努力を放棄している。同じようなスーツを着て、同じ角度でお辞儀をし、同じような応答をし、周囲から浮き立たないことを是とする人達を求めながら、人と違う発想でブレークスルーをして欲しいと願うのは無理と言うものだ。

もし、企業が、真に多様性を望むなら、企業自身が変わらなければならない。外国人を採用するのも、女性を活用するのも多様性の確保に役立つのは当然だが、型に嵌らない経験や考え方を持つ学生達にもっと機会を与えるのは、火急の要ではないだろうか。そのためには、若者が外に目を向けることが容易になるようなシステムを作るべきだ。一年一回の新卒採用への固執を捨てることは、日本の社会が活力を取り戻す一助となるに違いない。サッカー選手が見せてくれたお手本から、今こそ企業は真剣に学んで欲しい。