2013年6月20日木曜日

あるイクメンの子育て記 〜少子化対策へのヒント〜


  あるイクメンの話を紹介したい。彼は、米系の金融機関で私の担当をしてくれている若きプロフェッショナル。実は初めて会った時、私はかなり機嫌が悪く、あまり口をきく気もなく押し黙っていた。それというのも、この会社は担当を頻繁に変えるので、また担当変え?といささかムッとしていたのだ。もちろん彼の責任ではないのだが。

 その時、目についたのが、机の脇に置いてある3人の小さな子どもたちの写真。「あなたのお子様たち?」という質問から、ようやく会話は少しずつ動きだす。今どき3人も子どもがいるのは珍しいと興味をそそられた私は、ずうずうしくも根掘り葉掘り彼を質問攻めにすることに。

「お子様たち、おいくつ?」

「上は6歳、下は2歳の双子です。」

「奥様がお家で育児をなさっていらっしゃるの?」

「いや、妻もずっと働いています。」

「それじゃ、近くにご実家がおありなの?」

「いや、両方とも遠いので、とても頼れません。」

「それじゃ、昼間はどなたが面倒を見ていらっしゃるの?」

「3人とも保育園に行っています。」

「へ〜え、どうやって連れて行くの?」

「朝はボクがチャリンコの前と後ろに双子を乗せて、長男は脇を走らせて、近くの保育園まで連れて行くんです。帰りもボクが迎えに行きます。妻は仕事から帰って食事の担当です。大変だけど、子どもと一緒にいるのは楽しいです。この間も親子5人でグアムに行きました。」

「すごいわねえ、余裕ねえ。でも、会社を定時に出るのは大変じゃない?」

「いや、全然問題ないです。いつも5時半には出られます。実はボクは以前に日本の金融機関にいたのですが、そこではあり得なかったことですけれど。」

「日本の会社にいらした時は、定時には帰れなかった?」

「まず無理ですね。仕事量が多かった上に、上司がまだ席にいれば、先に帰るのは難しい雰囲気でしたし。残業が当たり前でしたね。」

「それにしても2人とも働きながら3人も子育てをするのは偉い!でも、もう一人、女の子がいたら良いわねえ?」

「いやいや・・・・・」

 彼の話を聞きながら、すっかり嬉しくなっておしゃべりになった私。最後にはまったく余計なお世話的おばさん発言まで飛び出し、不機嫌もどこかに吹っ飛んでしまっていた。そして、自分の経験を思い出していた。そう、長年、複数の外資系企業で働いて来たけれど、残業が常態化したことは一度もなかった。そんなことをしても、誰も評価してはくれない。年休は貯めずに消化するように、毎年会社からお達しがあった。上司が長期休暇を取るので、部下も休みを取るのに何の遠慮もない。休みの間は誰か(部下や同僚)に権限委譲するので、大事な会議があったとしても問題なし。自己犠牲を強いる精神論が飛び出すことなども全くなし。個人の生活を大切にするのは、当然のことなのだ。

 少子化に歯止めをかけようと政府は必死だ。でも、育休の延長とか期間限定的な対策を講じるよりも、個人と会社の関わり方をより本質的に変える方法を模索する方がより大切なのではないだろうか。つまり、男も女も、個人生活を犠牲にせずに働くことを可能にする環境を整備する対策だ。そうすれば、イクメン願望を持つ男性たちは、堂々とイクメンに変身できる。そして、女性も安心して出産できる。

 しかしながら、この問題は深く考えれば考えるほど、いろいろな問題が絡み合っているのが見えてくる。どうして日本の企業で、「滅私奉公」的な働き方がまかり通るのかと言えば、その根本には、終身雇用の代償として個人の犠牲は仕方ないとする意識があると言える。転職しようとしても、「新卒重視」で労働の流動性が低いから、簡単にはいかない。残業の多さは、日本のホワイトカラーの生産性の低さと結びついている。

 このように考えてくると、イクメン増産には、制度整備はもちろんだが、なによりも企業と働く者、双方の意識の変化が必要だ。でも、私の担当のイクメン君が身を以て体験したように、違う働き方があるのだと言うことを知った人たちは、もう、昔の働き方に戻ることは決してないだろう。そういう人たちが増えていけば、企業だって変わっていかざるを得ない。そして政府がするべきことは、普通に働く人が普通に子育てをすることが出来るように、ありとあらゆる対策を講じ、若い人たちの味方になってあげることだ。


2013年6月6日木曜日

アベノミクスの成長戦略に欠けるもの 〜なぜ始めない、人口問題と移民受け入れの議論を〜


 昨日、安倍首相はアベノミクスの3本目の矢、成長戦略の第三弾を発表した。それを受けて、株価は急落。つまり、投資家が期待していたほどのインパクトのある戦略では無かったということだ。

 同じ日に、出生率が1.41に上昇したというニュースがあった。16年ぶりの1.4台への回復ということで、それ自体はグッドニュースとはいえ、出生率がいささか増えても女性人口総数が減っているので、少子化の歯止めになるにはほど遠い。現在の人口を維持するには、2.0 の出生率が必要なのだそうだ。所得の低下、非婚化、晩婚化、教育費の高騰などさまざまな要因を考えると、2.0を目指すのは至難だろう。そして、現在の出生率が続く限り2300には、日本国民は消滅するという計算になるらしい。

 安倍首相がするべきことは、まず、成長の阻害要因は、人口減少だということを明確にすることだ。真の問題は少子化ではなく、人口減少と言うことなのだ。もちろん少子化は問題でその対策は重要だが、それだけで人口減少を食い止めることはほとんど不可能なのからその少子化対策としてもインパクトに欠けること、はなはだしい。例えば、政府は先日「女性手帳」を配布しようとした、ブーイングの嵐が巻き起こったことは記憶に新しい。この件で街頭インタビューに応じた女性が、少子化の問題を女性に押し付けているようで不愉快だと述べていたが、さまざまな面での女性と男性の格差是正の対策を取ってこなかった政府が、この期に及んで、女性に子どもを産むことをお願いしても、そう簡単に納得できないのは当然だそんな手帳を配るくらいなら、婚外子差別を無くす法律でも作る方がずっと効果があるだろうに。

 政治家たちは、日本の人口減少に歯止めをかけるには、少子化対策だけでは難しいということを分かっているはずだ。いろいろな数字がそれを表しているのだから。そして、いまや移民受け入れることしか、人口減少を食い止めることが難しいことも分かっているのだと思う。移民受け入れは、メリットばかりでなく、もちろんデメリットもある。けれど、私が不思議に思うのは、あれだけ成長戦略に政権の命運を賭けている安倍政権で、移民に関する議論をしている様子がチラとも見えないことだ。

 先日、シンガポールのリー・クアンユー元首相が、「移民を拒む日本は、政策を変えない限り、人口が減り続け、ついには滅びる」と発言した。これだけ言われても、反論もせず、なおかつ、移民問題に正面から向き合わない政治とは、一体なんなのだろう。

 インパクトのある政策を提示しない限り、アベノミクスが機能しないことは、今日のマーケットの反応で明らかだ。今までとは次元の違う政策で、世界を驚かせれば、世界は日本を買うだろう。そして、経済上のメリットを別にしても、日本には寛容な国になってほしい日本に来て働きたいという外国人には、難民にも移民にも門戸を開けて、多様性に富む国になってほしいそれこそが成長戦略そのものとも言えるのだから。





2013年5月15日水曜日

「私たちは彼らのことを知らなすぎた」 〜難民鎖国の日本の実情〜


アメリカ53%、韓国11.7%、日本0.3%。この数字が意味することを知っている人は、ほとんどいないのではないだろうか。もちろん、私自身も知らなかった。根本かおるさんの新著、「日本と出会った難民たち」を読むまでは。この数字は2011年度の難民認定率*の各国比較である。難民認定率とは、難民申請している人が認定される率。0.3%の意味するところは、日本では難民をほとんど受け入れていないと言うことだ。1981年に難民条約を批准しているにもかかわらず。さらに日本は、難民受け入れに関してG7の先進国の中でダントツのどん尻であり、6位のフランスですら7.9%と日本の26倍も難民を認定している。認定者の数はと言えば、2011年は1867人の申請者に対し21人、2012年は2545人に対して18人に止まっている。そして、G7の難民認定総数の中で、日本の占める割合は0.04%。実質0%なのだ。いくら政府が国際協調や多様性に富む社会が重要だと唱えても、この数字はそれがウソだということを示している。
*決定総数における認定者の割合 

根本さんの本は、ほかにもいろいろと衝撃的な事実を教えてくれる。たとえば、茨城県牛久にある難民申請者も含めた不法滞在の外国人が収容される施設。ここはあまりにも非人間的な環境で、十分な医療も受けられず、精神のバランスを崩す人もいるそうだ。憲法で基本的人権をうたっているのなら、たとえ不法入国者ではあっても、すべての人に対して同じ精神で接するべきだと思うのだが。

日本はどうしてこんなに難民に対して非寛容なのだろうか。これは国民の意思なのだろうか?いや、自分の無知を棚に上げて言わせてもらえば、国民は実情を知る機会がほとんどなかったと言ってよい。もし難民の置かれている実情を知ったなら、さまざまな迫害を逃れてようやく日本にたどり着いた難民たちに、こんなに冷たい仕打ちをして欲しいと思う人はいないのではないだろうか。

ほとんどの政治家にとって難民の問題は重要な問題ではないのだろう。難民の受け入れに奔走したとしても、彼らの票には結びつきそうもない。そして、難民の取り扱いに関して国民からの要求もあまりない。何と言っても国民は情報過疎の状況に置かれているのだ。この件に関しては、メディアの責任は重大だ。メディアはハンガーストライキをする難民のニュースなどを単発的には流しても、国民の理解を深めるために、持続的にそして俯瞰的な視点から難民の問題を取り扱って来たとは言いがたい。

根本さんの本は、最後に明るいニュースも伝えてくれている。それは市民の中に難民を支援する輪が広がりつつあるということだ。個人で、グループで、難民の生活や起業をサポートしたり、企業が難民をインターンとして受け入れたり、あるいは、専門知識を活かして弁護士たちがプロボノ活動を行ったりと、その活動は多岐にわたる。私自身も及ばずながら、まず手始めに、難民の故郷のレシピを紹介する『海を渡った故郷の味』と言う本を買った。そして、何も知らなかった私の目を開いてくれた根本さんの本を、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思い、この拙文を書いている。

「私たちは彼らのことを知らなすぎた」というのは、根本さんの本の帯にある言葉だ。この言葉は彼女だけの言葉ではなく、私も含めた多くの人が思うことに違いない。そして、ほんの入り口だけでも難民の問題を知ったからには、もう、知らないふりを通すことはできない。この問題を考えて行くことは、将来の日本をどういう国にして行きたいかということに繋がるのだから。

図書紹介
「日本と出会った難民たち」根本かおる著 英治出版株式会社発行
「海を渡った故郷の味」認定NPO法人難民支援協会発行


2013年4月27日土曜日

飛べ、リクルートの女の子たち、そして日本の女性たち 〜逃すな、アベノミクスの追い風を〜


「女の着ぐるみを着た異星人」と呼ばれたのはリクルートの元社長。彼女は創業者の江副浩正氏が残した1兆8000億円の負債を自力で返済するために社内で大ナタをふるったそうだ。これは最近、日経に連載されていた「リクルートの子どもたち」というコラムに載っていたこと。この奇想天外なニックネームひとつで、自由闊達なリクルートの社風が伝わってくる。このコラムによるとリクルートでは、男女差別はなく、「女性社員」と言う言葉も存在しないそうだ。男女別なのはトイレだけとか。外資系企業では当たり前のこととは言え、日本企業では記事に載るくらいに当たり前ではないということか。それだけリクルートは日本の企業としては普通ではなく、女性が働きやすい会社であるということであろう。

このコラムが連載されていたちょうどその頃、安倍首相はアベノミクスの3本目の矢、成長戦略の中核として女性の活躍を挙げ、2020年までに指導的地位にいる女性が占める割合を30%にするという目標を語った。リクルートの人材活用術は、安倍首相が聞けば、大喜びしそうだ。ところが、そんなリクルートですら課長クラスの女性比率は18%。どうしたリクルートの女性陣、この数字は一体何なのだ。正社員の半分が女性社員という会社で、男女差別がないのなら、少なくとも半数近くの課長が女性であっても良いはずなのに。求めれば、管理職を手に入れられるだろうに、何をためらっているのだ。

この「笛吹けど、踊らず」状態はリクルートだけの問題ではなく、多くの企業が悩んでいる。制度を整備しても、なかなか、女性社員は踊ってくれない。問題は複雑なのはよくわかる。例えば女性のキャリアの軌跡が右肩上がりにならずに、出産・育児の為に働き盛りの真ん中で凹んでしまうという、日本特有のM字カーブ現象は企業の努力だけでは解決は難しい。待機児童を解消するのは喫緊の課題だが、聞き飽きるほど言われ続けている割にはなかなか実効が伴っていない(横浜市を例外として)。企業が社内育児所を作っても満員電車で子ども連れ出勤は厳しいものがあるだろう。安倍首相の提案する三年育休は、結局は女性のみを育児に縛り付け、男女分業を強化してしまうかもしれない。男性の育児休暇取得率が上がったとは言え、いまだにほんの3%未満。夫がイクメンとなる可能性は高いとは言えない。安倍首相がいくら女性の活躍を望んでも、実際の所、日本のダイバーシティ・ギャップは国際比較で低下を続けている。

女性たちが管理職や指導的立場を求めないのは、彼女たちの経済合理性にそぐわないからに違いない。男性的風土のなかで、あんなに働かされるのなら、無理して管理職にならなくてもね〜、というような意識が透けて見える。あるいは横並び主義が跋扈する日本で、他と異なることをリスクと見て、あえて手を挙げないのかも知れない。飛ぶのが怖い所にもってきて、お手本とする先輩もいまだに少ないままなのだろう。

けれども政府や企業が、彼らの経済合理性により、女性のよりいっそうの活躍を求めている今、最後の鍵を握っているのは女性たち自身だ。女性たちには強力な追い風が吹いているのだから。もちろん、制度的に不備な面もたくさんあるだろう。けれど彼女たちにもっとも足りないものは、気づきではないだろうか。大きなことに挑戦することは本人を成長させ、将来を拓き、結局は本人にとっても合理的だという気づき。責任を持つことはやりがいのあることで、何よりも意思決定のプロセスに女性が参加するのは当たり前のことであるという気づき。もしそういう気づきがあれば、それは行動に繋がる。

どうしたら、女性がその気づきを得て、意識を変えることができるのだろうか。それは今の日本の中よりも、日本の外に出た方が、容易に得られるような気がする。多くの企業がグローバル化を目指し、外国に拠点を設けている今、女性社員を海外に派遣するのはそんなに難しいことではないだろう。もし、日本の女性が、外国の女性たちのやる気を見たら、それは彼女たちの目から鱗を落とし、何らかの気づきを与えるのに違いない。欧米のみならず、アジア諸国の女性たちは強い上昇志向を持ち、野心満々で、何にも臆することがない。そういう環境に女性を送り込み、彼女たちに意識変化の先兵になってもらうのは、結局は変化を起こす早道ではないだろうか。

今の女性たちが働く環境は、私の年代の人たちの若い頃と比べ、格段に男女格差が少ない。そして、今後ともその傾向は続くはずだ。子育てと仕事の両方を望むことで文句を言う人はいずれ絶滅するだろう。だから、リクルートの女性たち、そして日本の女性たちよ、勇気をもって、あらゆる成長の機会を捉え、どん欲に生きてほしい。それが日本の国力を上げることに繋がることも忘れないで。


2012年11月18日日曜日

選挙を前に思うこと〜政治家たちが取り上げないもう一つの大きな問題〜

 日本のメディアはランキングや数字が好きだ。日本のGDPが世界第二の地位から転げ落ち、中国に取って代わられた時は、メディアは連日それを大きく報じた。もちろん、経済成長率も、企業の損益も、内閣や政党支持率も重大ニュースだ。ノーベル賞の数だって、スポーツ選手やチームの世界ランキングだって、国民が知りたいニュースには違いない。でもNHKや大新聞までもがAKBの選挙を報じる一方で、メディアがほとんど無視し続けているものがある。

 それは、男女格差の数字だ。ダボス会議という名で知られる世界経済フォーラムが発表した2012年のGlobal Gender Gap Indexつまり世界の男女格差のランキングでは、日本は、世界135カ国の中で、101位と惨憺たる有様だ。そもそも日本は、3年前の2010年でも94位と、多くの先進国や発展途上国の後塵を拝していたのだが、状況はさらに悪化して、2011年の98位、そして今年の101位とこの三年間、降下を続けている。

 このランキングは、経済、教育、健康、そして政治の4つの部門の総合評価なのだが、対象としているのは、女性進出のレベルではなく、男女間の格差である。過去4年間、総合評価で一位に輝いているのはアイスランドで、2位から5位まで、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイルランドと北欧の国々が占めている。米国は22位、中国は69位、同じく世界経済フォーラムによる国際競争力評価で一位のスイスは10位。アジアでの最高位はフィリピンの9位だ。ちなみに女性格差の少ない北欧諸国は、国際競争力でも上位を占めている。

 なぜ、日本が男女格差でこんなにも低位置に甘んじているか、4部門の個別ランキングを見てみると、経済と政治の領域での102位と110位が総合評価を引きずりおろしているのが分かる。考えてみれば、教育面や健康面において男女格差を感じることはあまりないが、経済面における格差は、組織で働く女性のほとんどが多かれ少なかれ身を以て体験していることだろう。賃金の格差や、仕事での機会不平等、管理職の女性の少なさには説明を要しない。けれども2010年の数字で経団連企業の女性役員は0.5%、日本新聞協会役員、放送協会役員の女性比率が0%と聞くとやはりかなりショッキングな数字ではある。ちなみに政治では衆議院議員の女性比率は10.9%、参議院は18.2%にとどまる。

 日本は人口減と高齢化の時代を迎えている。それが意味するところは第一に労働力の縮小であり、それは生産力の低下、所得の低下、消費の低迷と税収の縮小につながり、日本の財政赤字のさらなる悪化を招くということだ。要するに、働き手として女性を有効活用しないと国力が低下する一方であるということは自明の理であり、緊急に対策を講じる必要がある。それが分かっているから政府も男女共同参画局なるものをおいているのだろうに、残念ながらおせじにも結果が伴っているとは言えない。グローバル・スタンダードからますます遠のいているのだ。ちなみに、やはり2010年の数字で、国際機関での専門職における女性の比率は56% 。これは、やる気と能力のある日本の女性は、機会が少ない日本を見限って国際機関を目指しているということを示唆している。国際的に仕事の場を求める意気は大いに賞賛するが、一方ではこればBrain Drain、つまり頭脳流出であるとも言える。これは本当にもったいない話だ。

 北欧諸国において男女格差が少ない理由は、第二次大戦後、労働力の不足に悩み、女性を社会の中枢に導入する政策を取ったからだ。今、日本は、戦後の北欧諸国と同じような状況であると言える。今こそ、日本が本気で、女性も社会の主要アクターとして位置づけ、その能力を十分に活用しなくてはいけない時期を迎えているのに、この3年間、チェンジをもたらしてくれるはずの民主党は、何の有効な手を打ってこなかったというのは残念至極だ。

 今、世の中は、選挙一色だ。毎日、15もあるという政党の離合集散が報じられている。どの政党も、被災地の復興、原発、消費税、TPP、領土問題、国会の定数削減などを取り上げており、どれも大事な問題であることは間違いない。けれどもどの政党も、この日本の社会の慢性病とも言うべき男女格差の問題に焦点をあて、それに真摯に向き合っているとは思えない。もしそういう政党があれば、それに一票を投じる有権者も多いだろうと思うのだが。考えてみれば、政党のトップの人たちにとっては、この問題は重大なことではないのだろう。どの主要政党の党首も働く妻を持っているようには思えないし、中にはあからさまに女性蔑視の行動や発言をする者もいる。彼らに望みを託することは、期待薄のように見える。政治の世界で女性のプレゼンスが少ない上に、古い体質の男性支配が歴然としているメディアの世界もまた、この問題を真剣に取り上げることがないと言うのは、悪循環という他はない。

 それを断ち切るには、もっとグローバルな視野を持ち、既得権益にまみれていない、若者たちの台頭が必要だ。もし、有効な政策や意味ある数値目標を掲げてこの問題に取り組む政党があれば、私の一票はそこにいくはずなのだが。残念ながら、そういう政党や政治家は今の所見当たらない。でも、そんな政治家が現れるはずはないと思っている限り、私の目の黒いうちに、日本が力強く再生の道を歩み始めるのを見ることはできないだろう。だから、遅々として進まない日本の社会変化に忍耐が擦り切れそうになっても、少しでも可能性を感じさせる政治家を探し出し、育てていかなくてはいけないのかもしれない。若者よ、そして特に女性たちよ、がんばれ!

2011年9月17日土曜日

どうにかしなきゃ、永田町の幼稚園


友人が、小学生の息子を、国会見学に連れて行ったところ、息子は、「学級崩壊みたいだね」と言ったそうだ。言いえて妙、子どものいうことは、時として大人も及ばない直感に溢れている。

子供の言うことに感心している場合ではない。国会中継を見れば、選良と言われる人びとのあまりの恥ずかしげのない態度に目を覆いたくなる。国民のお金であの席に座っているという自覚があるのかどうか知らないが、審議中にもかかわらず、絶え間なく野次を飛ばす人(しかも大勢)、居眠りをする人、あくびをする人、隣の議員と何やら楽しそうにおしゃべりする人、あるいは両肘を机についてほとんど突っ伏している人などなど。これが教室だったら、教師は絶望に駆られるに違いない。学級崩壊現象は、参議院でも一向に変わらない。参議院を良識の府だなんて持ち上げるのは、勘違いもはなはだしい。

大体、テレビで自分が映る危険があるのを承知しているのかいないのか、あるいは、自分の態度に問題があるとも思ってもいないのか、議員達のマナーの悪さ、緊張感のなさ、そして危険察知の鈍さには、驚くべきものがある。閣僚が失言すれば、ここぞとばかりに同僚議員を糾弾し、メディアでしたり顔にコメントを発したりしているが、自覚も自浄作用もない議員たちに、他を批判する資格があるのだろうか。こういうのを「目くそ鼻くそを笑う」と言うのだ。各政党は、まずは自党の議員たちに、最低限のマナーを「教育」し、くだらない失言など繰り返さないようにリスクマネジメントを徹底すべきだと思うのだが。

もちろん、本来だったら国民のリーダーたる議員たちに、さらなる教育など不要かも知れない。けれど、国会が学級崩壊状況なら、政治家は幼稚園の子供と同じだと割り切って、何らかの教育を施し、さらに見張り機関を作ることが必要なのではないだろうか。子供もあきれる国会の有様や、低次元の失言の繰り返しで政治が停滞することは、国民の一層の政治不信を引き起こし、結局は政党の支持率にも影響があるのだから。

議員教育に関しては、政党は企業を参考にしたらよい。企業、特に外資系企業は、リスクマネジメントにかなり気を遣っているからだ。たとえば、私が以前働いていた米系企業では、会社を代表する立場にある人たちに危機対応の仕方を徹底的に教え込んだ。メディアに扮したコンサルタントが執拗に繰り返すネガティブな質問に対して、感情を爆発させることなく、冷静に適切に対応できるように訓練するのだ。コンサルタントはビデオ録画を見ながら、決して口にしてはいけないことを理解させ、発言の仕方や、目線、表情や身のこなし方にいたるまで、細かく批評し改善方法を指摘する。この訓練は楽しいものではなかったが、自分の態度を意識し、客観的に見る癖を作るのには効果的だった。

見張り機間としては、メディアか、NPOにその役割を期待したところだ。たとえば、国会審議中に態度が悪い人たちを映像に撮り、ワーストランキングを作って、インターネットで映像発信し、常に国民の目に触れるような仕組みを作るのは、その気さえあれば、比較的容易ではないかと思う。不祥事を起こした相撲協会が、ベスト取り組みを発表するのと逆の仕組みではあるが、同じような抑止効果が期待されるのではないだろうか。

実は、幼稚園は永田町だけではなく、霞ヶ関にも存在する。少し前、福島の被災児童たちの質問に、きちんと答えられない役人を見て、ある子が「子供のいうことが分からない大人は、きっと子供の時にちゃんと勉強しなかったんだね」と言っていた。大人のように斟酌をしない分、子供たちのコメントは手厳しく辛らつだ。子供たちにあきれられないよう、そして彼らの尊敬を得られるよう、永田町や霞ヶ関の住人たちにはお手本となるような態度を取って欲しいと願うばかりだ。

2011年9月14日水曜日

「よそ者、ばか者、若者」たちの森の再生プロジェクト

兵庫の姫路から、智頭急行というなんとも趣き深いローカル鉄道に乗り換えて、山間地を北西に向かって走ること約二時間。岡山県とはいえ、鳥取県との境に近いところに、西粟倉村がある。森林率が70%近くに及ぶ日本の中でも、この村は特に森林率が高く、何と97%。つまり、ほとんどが森で、森しかないといってもよい村だ。人口1600人の西粟倉村は、ご他聞に漏れず、住民の高齢化と過疎、そして雇用問題に悩む村だ。けれども、この村は「平成の大合併」の嵐が吹き荒れた際も、小村として埋没するのをよしとせず、自立の道を選んだ。それは苦渋の選択だったに違いない。

この緑深い西粟倉村に、私が応援している森の学校という会社がある。森の学校は、親会社のトビムシが主に都市部の小口投資家から募った資金を基にしたファンドの支援を得て、村の行政や住民と連携しながら、「百年の森構想」を掲げ、森林再生から地域再生に取り組んでいる。マーケティングを重視したその取り組みは、戦略的かつ画期的だ。ちなみにトビムシというユニークな名は、土壌を豊かにする小さな地中生物に由来し、とびむしのように、縁の下の力もちになって、森を守っていきたいという心を表している。

ところで、日本の林業の問題の一つは、小規模所有の個人が多いことだ。しかも、所有者は代替わりして、その土地に関心を持っていないこともある。こういう状況は、森の手入れを困難にする。間伐をしない森は陽光を阻み、木の成長を妨げる。荒れるにまかせた森は、豪雨などが起これば土砂崩れを起こしやすく、崩れ出た土砂は海に流れ込み、生態系を破壊し、漁業にまで影響を与える。山と海に恵まれた日本ではあるが、森林をきちんと管理することが、その幸を得る前提なのだ。

話を西粟倉村に戻そう。村は小口森林所有者の同意を得て森をコモンズ化し、役場がまとめて管理する森林組合を作っている。森への集中投資の資金は国に頼らず、トビムシのファンドがその原資だ。道もない急峻な山の斜面は人のアクセスを拒むが、ファンドを元手にフィンランドから購入した巨大なハーベスター(伐採・収穫機械)などの高性能林業機械は、森林組合にレンタルされ、林道の造成、間伐材の伐採、山からの運搬に威力を発揮し、森の管理の効率化を実現している。そうして生産される間伐材にさまざまな付加価値を与えて、都市部に販売していく役割を担っているのが森の学校である。

森の学校は、切り出した木を加工して商品化するために、製材し木材として販売するだけでなく、外部のデザイナーとも連携し付加価値を高めた家具や木工品も制作している。廃校となった村の小学校の建物にある森の学校を訪ねてみると、モデル家屋や家具が木の香りを漂わし、昔懐かしいぬくもりを感じさせる。家具や木工品の質は、短い間に飛躍的に向上し、デザインに関わる人たちの意気を感じることができる。一方、間伐材を切り出した後の森は、確かな手入れを続けることで、百年後も質の良い木々の森となって後世に伝えることができる。森の学校のすばらしい点は、森を守り、この森しかない村を活性化するために、村一体で山の管理から木材の流通・販売、そしてまた山林への投資まで、循環する一連のサイクルを作ったことだ。

もちろん森の再生プロジェクトは雇用の創出にも大きく貢献している。1600人、550世帯だったこの小村に、70人を超える雇用を作り出し、全国からIターンの若者を引きつけている。中には、横浜市の区役所から移り住んできた公務員や、移住して起業した家具職人もいる。そしてその中心に森の学校の牧大介氏がいる。牧さんは、京都生まれで、京都大学の農学部を卒業し、農山漁村専門のコンサルタントをした後、クライアント先の一つである西粟倉村の森の再生に懸けることを決意した若者だ。もの静かな口調の牧さんではあるが、彼と話していると、並々ならぬ視野の広さと決意を感じることができる。昨夏、西粟倉村を訪ねた際、牧さんは、貴重な天然うなぎを捕獲して、自ら捌いて都会の訪問者たちにごちそうしてくれた。グニャグニャと動き回る肥えた天然うなぎと必死になって格闘する彼の姿に、都会の人に森のよさを知って欲しいと願う彼の真摯な心を見た。天然のうなぎがこの上なく美味だったことはもちろんだ。
                                                                                               
ところで、日本の地方を歩き回ってきた友人に言わせると、地方の活性化の数少ない成功例の裏には、かならず、「よそ者、ばか者、若者」の存在があるそうだ。差別用語のような言葉ではあるが、誤解は無用、これは最大級の褒め言葉なのだ。変革を起こすには、よそ者の持つ客観的で新しい視点、ものごとを簡単にはあきらめない愚直なまでの信念、そして、若者の持つエネルギーが絶対に必要であると言うことなのだ。実際、森の学校の社長の牧さんは、「よそ者、ばか者、若者」の典型であるし、彼の熱意と戦略に共感して移住してきた人たちも、また同様だ。こういう若者たちこそ、日本の再生の原動力になるのに違いない。彼らの作りあげた地域再生のモデルが、西粟倉村のみに留まらず、東北の復興や日本の地域再生のために応用されることを心から願っている。

森の再生に関心のある方は、この若者たちを応援してほしい。そして、森の学校が製作する家具や木工品もぜひご覧になってほしい。

森の学校  http://nishihour.jp/index.html