福島の原子力発電所の事故は、今まで、原発の危険性など余り考えずに、その恩恵を享受してきた私たち国民に、今後の原発政策はどうあるべきかと言うとても難しい問題を突きつけている。昔、フランスがタヒチのムルロア環礁で、核実験をした時に何と身勝手で卑怯なやり方だと憤慨したが、考えてみれば、危険は福島に押し付け、恩恵を受けるのは主として都市部の住民と言うパターンと、本質的に違いはない。危険負担と利益享受が乖離しているのだ。福島の人達にとっては晴天の霹靂のような誠に理不尽な状況を受け入れることは自体、容易なことではないだろうが、もしも、受益者たる他の地の人々が福島人の艱難辛苦に思いを寄せなかったとしたら、それは本当に耐え難いことだろう。
今回の大惨事を機に、原発を今後とも推進するか、あるいはそれを廃止するかという議論がメディアでも大いに取り上げられているが、人々は明確な答えを出せないでいる。原発に30%依存している日本の電力事情を考えると、それを廃止すると言う結論に出すには、今までの生活様式や産業構造を抜本的に変える必要があり、その決意を持っている人は、多分少数派だ。とはいえ、このような放射能災害を起こすような危険は、徹底的に排除するべきだというのに誰も異論は無いだろう。より安全で効率的な代替エネルギーが開発されない限り、私達はとても困難な問題に答えを出さなくてはならない。
こんな折に心のよりどころになるのは、エコエティカ(生圏倫理学)だ。この倫理学は世界的に著名な哲学者、今道友信氏が提唱する学問で、彼は技術社会が成立してから未来に向けて新しい倫理、つまりエコエティカが必要だと論じている。古来、人々が、発明してきた道具は、明白な目的を持って作られてきた。切るためのナイフ、乗るための馬車など、ナイフや馬車は、その目的は明白でそれ以外には、使われることが無かった。けれども20世紀以降急激に発達した科学・技術は、目的とは別にそれ自体で進化する。進化は自己目的化し、膨大な技術関連は人間を取り巻く環境となり、人間の行動を規定することになる。
今、私達が日々直面しているのは、技術が先行し、倫理がついていけない問題だ。たとえば、遺伝子工学や生殖技術の発達は、新たな問題を提起している。身近なところでは代理母の問題がある。また、クローン人間が誕生したら、どのように対処すべきか。(カズオ・イシグロは「私を離さないで」と言う本で、臓器移植のために創造された人たちのグロテスクな話を綴っているが、近未来にこのようなことが起こらないとは誰も言えない)。そして、もちろん原子力の問題。そもそも地球には存在しなかったプルトニウムという危険な物質を作ってしまった人間はそれをどのように対処すべきか。
私達は、日々、進化する技術関連の環境の中で生きている。技術立国として、生きていく道を選びながら、技術を律するべき倫理には深く考えをいたらせずに生きてきた。今、原発の事故という悲劇に見舞われて、深く考えなければならないのは、進化の激しい技術が生み出す問題に、どのような思想や価値観をもって取り組むべきかと言う事だ。恩恵が大きいものは、危険も大きい。原発の安全神話は既に崩れてしまったが、私達は神話に惑わされることなく、正しい情報を求め、あくまでも謙虚に、恐れを持って、この問題に対処していく他、道はないと思う。